にっぽんのうた
昨日は午前中はアフリカの踊りを踊り、午後は英語の歌をずっと歌っていて、いったい私は何人なのだ?という疑問が。
なんで日本語しか喋れないというのに私はわざわざ英語で歌を歌っているんだろうと毎日のように不思議に思っていますが(誇大表現。毎日は言いすぎ。)、まあ単純に日本語の歌だと歌詞にいらつくことが多いからでしょう。
いらついて、スッと聞き流せないので困る。
たぶん、私がことばというか日本語をだいじにしすぎてるから、日本語で歌いたくないのだ。
じゃなきゃ短歌などに興味もたないわ。
お、すごくかっこよくいえば、絶対音感がある人みたいじゃないですか。聞くところによると絶対音感を持っている人は細かい音のズレがいちいち気になって(わかっちゃいますからね)しんどかったりするらしい。たしか。たぶん。
あと、私はゴスペルが好きなのですが、その理由のひとつとして歌詞が対人恋愛についてじゃないから、というのがある。
日本の歌謡曲といいますかポップスって、なんでこんなにヘテロセクシャル恋愛まみれなの?
恋愛以外、歌詞にしちゃいけないみたいな決まりでもあるわけ?
というのが幼い頃からの疑問っちゅーか違和感でして。
いやまあもちろんそういう曲ばっかりではないんでしょうけど、街で耳にする流行りの歌はそういうのばかりのような気がするし。「世界に一つだけの花」とか非恋愛系のものでも、それはそれで私は歌詞にいらついてしまうし。
しかし恋愛を歌っていても、長唄小唄などはぜんぜん聞けるのはなぜか。古いものはいいのか、自分。
あ、近代的恋愛はダメなのか?
いやいや、そんなことないか。恋愛の歌でも、マイナーな歌の中には好きな歌がいくつもあるし。
あれ?
単に流行ってる曲だからという理由だけで、その曲の歌詞が嫌いになってる気もしてきた……。
あの歌も、SMAPが歌ってなくて、もっとマイナーだったら、いい歌だなーと私は思ったのではなかろうか。
権威に弱いので、権威に過度に反抗的になる人。みたいな感じなんでしょうか、私は。うーむ。
周りを見渡せば、世の中、みんな大変な状況で頑張ってる人ばっかりなので、せめて私ぐらいはのんびり遊び暮らしてないとなーと思う今日この頃。 2012/05/13(日) 22:28:05 未分類 トラックバック:0 コメント:0
なんで日本語しか喋れないというのに私はわざわざ英語で歌を歌っているんだろうと毎日のように不思議に思っていますが(誇大表現。毎日は言いすぎ。)、まあ単純に日本語の歌だと歌詞にいらつくことが多いからでしょう。
いらついて、スッと聞き流せないので困る。
たぶん、私がことばというか日本語をだいじにしすぎてるから、日本語で歌いたくないのだ。
じゃなきゃ短歌などに興味もたないわ。
お、すごくかっこよくいえば、絶対音感がある人みたいじゃないですか。聞くところによると絶対音感を持っている人は細かい音のズレがいちいち気になって(わかっちゃいますからね)しんどかったりするらしい。たしか。たぶん。
あと、私はゴスペルが好きなのですが、その理由のひとつとして歌詞が対人恋愛についてじゃないから、というのがある。
日本の歌謡曲といいますかポップスって、なんでこんなにヘテロセクシャル恋愛まみれなの?
恋愛以外、歌詞にしちゃいけないみたいな決まりでもあるわけ?
というのが幼い頃からの疑問っちゅーか違和感でして。
いやまあもちろんそういう曲ばっかりではないんでしょうけど、街で耳にする流行りの歌はそういうのばかりのような気がするし。「世界に一つだけの花」とか非恋愛系のものでも、それはそれで私は歌詞にいらついてしまうし。
しかし恋愛を歌っていても、長唄小唄などはぜんぜん聞けるのはなぜか。古いものはいいのか、自分。
あ、近代的恋愛はダメなのか?
いやいや、そんなことないか。恋愛の歌でも、マイナーな歌の中には好きな歌がいくつもあるし。
あれ?
単に流行ってる曲だからという理由だけで、その曲の歌詞が嫌いになってる気もしてきた……。
あの歌も、SMAPが歌ってなくて、もっとマイナーだったら、いい歌だなーと私は思ったのではなかろうか。
権威に弱いので、権威に過度に反抗的になる人。みたいな感じなんでしょうか、私は。うーむ。
周りを見渡せば、世の中、みんな大変な状況で頑張ってる人ばっかりなので、せめて私ぐらいはのんびり遊び暮らしてないとなーと思う今日この頃。 2012/05/13(日) 22:28:05 未分類 トラックバック:0 コメント:0
ALL IS CALM,AND NOTHING HURT
慣れない英語を使ってかっこつけてみる。
All is calm ってのは「きよしこの夜」の一節ですね。
ブログ上の名前をなんとなく改名してみました。
というか、ばるぶしーなんて名前にしてたのですね。覚えてなかった。メール形式で記事を送りつけるだけのゴミ箱ブログとして扱ってましたからね……。
ばるぶしーという名前は思いおこせばパソコン通信時代に、私がはじめて殺めた哺乳類の名前からつけたんだった。(べつに趣味で動物を虐殺していたわけではありません。そう書いておかないと誤解されそうである。)
saitou9という名前にしてみましたが、環さんとも学さんともその他著名なサイトウさんとはべつに関係ありません。なんか平凡な苗字にしてみたくてですね。
それはともかく、今日は私の誕生日です。おめでとう。
誕生日当日は50パーセントオフというお知らせがきたのでカラオケ屋さんにひとりカラオケ決めに行こうかと思ってましたが、残念ながら風邪をひいてしまい計画は挫折しました。
ウソです。受付カウンターで「今日、誕生日なのでバースデー割引でお願いします!一人です!」って申請する勇気がないだけです。
(誕生日に一人でカラオケ?この人、友達いないんだな……)という哀れみの目で見られたら嫌だなーと気にする程度には人目を気にする小心者なので。いや、風邪はホントですけれども。
恒例の母親ネタ。
今日、母親から緑色の封筒が届いてて、チケットでも入ってる感じの硬さだったんで、習い事の発表会のチケットでも送りつけてきやがったか?と思ってたら、バースデーカードが入っていて意表をつかれた。
意表をつかれたってことにちょっと自分で驚いた。
彼女からバースデーカードが送られてくるのはべつに初めてじゃないし、もしかすると毎年送られてきていたかもしれないのに、全然予想してなかったのです。自分の誕生日を忘れていたわけでもない。いやむしろ一人で数日前からわくわくしてた。なんか、年とるって、素敵じゃないですか?(こういう時、自分が老女に色気を見出せる価値観の持ち主でしみじみよかったと思う。)
そう、だから、誕生日という意識はあったのに、全然母親からコンタクトあるとは自分が予想してなかったという事実にちょっと驚いたんです。嫌な驚きではないですね、どちらかというと嬉しいたぐいの驚き。
だいぶ、私にとっての母親の存在感が小さくなったんだなーと。
ちなみにカードの中身はあいかわらずのアレです。
「お誕生日おめでとう!うまれてきてくれてありがとう。心より、愛をこめて……
○○より」
という文面でした。
○○って、私が仮名にしたんじゃないですよ、ちゃんとそう書いてあるんですよ。
そこ読んで、軽く吹いた。あいかわらずヘンな人だよ、と苦笑。あと、ちょっとムカついてカードを破りたくなった。いやほんと、だから、オマエの愛はいらねえっつってんだろが。
それぐらいで、あと、風呂に入ってあがったらそんなものもらったこと忘れた。
そんなもんです。
しかしなんだか縁起の悪い気がするので毒消しとして、友人知人仲間たちにおねだりをしてみようかと思いつく。
私はメール返さないけど、それを承知で、「お誕生日おめでとう」メールを送ってくれないかなあ。もちろん、ヒマだったらだけど。とかそんな感じでお願いしてみたりとかとかとか。
で、自分がそういう頼みをしたとしてもらうであろうメールのあたたかい文面を、私が知っている人々の顔を心に浮かべながら想像したらそれだけでなんだかすごく幸せになって、べつに実行にうつさなくていいやってなった。
幸せすぎて、今、ちょっと涙目。これが想像力の正しい使い方。
幸せって、瞬間だよね……。
明日には、「あーこんなクソみたいな世の中やってらんないわー死にたいわー」とか思ってるかもしれませんし。
と、ここまで書いて、記事を投稿する前に自分のブログをチェックしてたら、えーとなんだその、数人の方から数ヶ月前にコメントいただいてたまま放置してたことがわかった……。ここ一年ぐらい、コメントチェックしてなかったからなあ。
鬱な時は、コメントチェックなんて怖くてできないもので。まあべつにずっと鬱だったわけじゃないけれども!
ああ、言い訳。
じゃなくて、嬉しいです。
しかも、思いがけない方からだったりしたもので。
ぼかぁ幸せだなーって思ってたのに、さらにそのうえまた幸福感を感じるとは、どんだけ!
神様アリガトウ!
嬉しすぎる誕生日プレゼントだよ。
(たぶん今、バースデーハイです。)
こうなったら、コメントチェックするのはまた来年のこの日まで封印しておいて、一年分のコメント読むのを自分へのバースデープレゼントにしようかとか一瞬思ったけど、そんなことやると悪口雑言のコメントとかもらいそうなので、やめます。たんじょうびにそんなこわいメッセージ読んだら心が折れる。
2011/12/08(木) 02:23:47 未分類 トラックバック:0 コメント:2
All is calm ってのは「きよしこの夜」の一節ですね。
ブログ上の名前をなんとなく改名してみました。
というか、ばるぶしーなんて名前にしてたのですね。覚えてなかった。メール形式で記事を送りつけるだけのゴミ箱ブログとして扱ってましたからね……。
ばるぶしーという名前は思いおこせばパソコン通信時代に、私がはじめて殺めた哺乳類の名前からつけたんだった。(べつに趣味で動物を虐殺していたわけではありません。そう書いておかないと誤解されそうである。)
saitou9という名前にしてみましたが、環さんとも学さんともその他著名なサイトウさんとはべつに関係ありません。なんか平凡な苗字にしてみたくてですね。
それはともかく、今日は私の誕生日です。おめでとう。
誕生日当日は50パーセントオフというお知らせがきたのでカラオケ屋さんにひとりカラオケ決めに行こうかと思ってましたが、残念ながら風邪をひいてしまい計画は挫折しました。
ウソです。受付カウンターで「今日、誕生日なのでバースデー割引でお願いします!一人です!」って申請する勇気がないだけです。
(誕生日に一人でカラオケ?この人、友達いないんだな……)という哀れみの目で見られたら嫌だなーと気にする程度には人目を気にする小心者なので。いや、風邪はホントですけれども。
恒例の母親ネタ。
今日、母親から緑色の封筒が届いてて、チケットでも入ってる感じの硬さだったんで、習い事の発表会のチケットでも送りつけてきやがったか?と思ってたら、バースデーカードが入っていて意表をつかれた。
意表をつかれたってことにちょっと自分で驚いた。
彼女からバースデーカードが送られてくるのはべつに初めてじゃないし、もしかすると毎年送られてきていたかもしれないのに、全然予想してなかったのです。自分の誕生日を忘れていたわけでもない。いやむしろ一人で数日前からわくわくしてた。なんか、年とるって、素敵じゃないですか?(こういう時、自分が老女に色気を見出せる価値観の持ち主でしみじみよかったと思う。)
そう、だから、誕生日という意識はあったのに、全然母親からコンタクトあるとは自分が予想してなかったという事実にちょっと驚いたんです。嫌な驚きではないですね、どちらかというと嬉しいたぐいの驚き。
だいぶ、私にとっての母親の存在感が小さくなったんだなーと。
ちなみにカードの中身はあいかわらずのアレです。
「お誕生日おめでとう!うまれてきてくれてありがとう。心より、愛をこめて……
○○より」
という文面でした。
○○って、私が仮名にしたんじゃないですよ、ちゃんとそう書いてあるんですよ。
そこ読んで、軽く吹いた。あいかわらずヘンな人だよ、と苦笑。あと、ちょっとムカついてカードを破りたくなった。いやほんと、だから、オマエの愛はいらねえっつってんだろが。
それぐらいで、あと、風呂に入ってあがったらそんなものもらったこと忘れた。
そんなもんです。
しかしなんだか縁起の悪い気がするので毒消しとして、友人知人仲間たちにおねだりをしてみようかと思いつく。
私はメール返さないけど、それを承知で、「お誕生日おめでとう」メールを送ってくれないかなあ。もちろん、ヒマだったらだけど。とかそんな感じでお願いしてみたりとかとかとか。
で、自分がそういう頼みをしたとしてもらうであろうメールのあたたかい文面を、私が知っている人々の顔を心に浮かべながら想像したらそれだけでなんだかすごく幸せになって、べつに実行にうつさなくていいやってなった。
幸せすぎて、今、ちょっと涙目。これが想像力の正しい使い方。
幸せって、瞬間だよね……。
明日には、「あーこんなクソみたいな世の中やってらんないわー死にたいわー」とか思ってるかもしれませんし。
と、ここまで書いて、記事を投稿する前に自分のブログをチェックしてたら、えーとなんだその、数人の方から数ヶ月前にコメントいただいてたまま放置してたことがわかった……。ここ一年ぐらい、コメントチェックしてなかったからなあ。
鬱な時は、コメントチェックなんて怖くてできないもので。まあべつにずっと鬱だったわけじゃないけれども!
ああ、言い訳。
じゃなくて、嬉しいです。
しかも、思いがけない方からだったりしたもので。
ぼかぁ幸せだなーって思ってたのに、さらにそのうえまた幸福感を感じるとは、どんだけ!
神様アリガトウ!
嬉しすぎる誕生日プレゼントだよ。
(たぶん今、バースデーハイです。)
こうなったら、コメントチェックするのはまた来年のこの日まで封印しておいて、一年分のコメント読むのを自分へのバースデープレゼントにしようかとか一瞬思ったけど、そんなことやると悪口雑言のコメントとかもらいそうなので、やめます。たんじょうびにそんなこわいメッセージ読んだら心が折れる。
2011/12/08(木) 02:23:47 未分類 トラックバック:0 コメント:2
「今年の夏の家族イベント報告」
まあ、そういうタイトルで、一年前、某団体の機関紙に投稿して載せてもらったやつ。ちなみにこの機関紙は私の母親のもとにも届いているというのを私は知っている。知ってて書いたんじゃが。
記念にこっちにも載せておこう。長いよ。
今、読み返してみると、「そんなこと小学生にもできる」とか書いちゃって小学生に悪いことしたなー、などと思う。
--------------------------------------------------------------------------------
「今年の夏の家族イベント報告」
こんにちは。○○○○メンバーのMです。(ハイ、M!)
今年の夏の暑さは異常でしたが、「いやー暑かった」と一息ついているあいだになんだかもう2010年も終わりがみえてきてしまいました。時間の流れが速すぎて、ついていけません。自分が今、36歳という年齢だということも、どうにも信じられないのですが、これは私が現実を生きてないからなのでしょうか。というか、現実を生きるってナニ?
……と、すぐに哲学的というか抽象的な方向に走ってしまうのが私の頭の癖なのですが、それはともかく、後々まで記憶に残りそうな今年の猛暑にちなんで、真夏の怪談(?)をひとつ。
私が平和な抑うつライフを満喫していた8月のある夜のことでした。
ストーカー母(と私は名づけている)が突然、何の前触れもなく一人住まいの私の家を訪ねてきたのでした。前回、彼女が私の家に無断侵入していた事件から約三年ぶりのお宅訪問です。
チェーンごしに「あなたとする話はありません。帰りなさい!」と言ってドアを閉めたのですが、ドアごしにやくたいもないことを一方的に話し続けていていっこうに帰ろうとしないので、私は何度もドアを開けては65歳の母に対して、ひっぱたいたりつかみあったり足蹴にしたり塩をまいたりバケツに水をくんできて浴びせたりと奮闘し、ようやく撃退に成功したのでした。
いえ、撃退したというほど格好いいものでもなく、あの手この手を尽くしてなんとか祟り神さまにお帰りいただいた、というのが正直なところです。階段から突き落として大怪我させるわけにもいかないですしねえ。(私の家はアパートの二階なのです。)
といいますか、大怪我自体はしてもらってもいっこうに構わないのですが、私とは関わりのない場所で私とは関係なく怪我してほしい。とにかく私は彼女と関わりたくない。というか彼女から関わられたくない。もうまっぴらだ。
「摂食障害で苦しんでいるかわいそうな娘(←彼女からは私はこう見えるらしい)の心に寄り添い、包み込み、大きな愛で娘を救うすばらしい母親」プレイを彼女がしたがるのは自由ですけれども、私を勝手に巻きこんで私をその小道具にしようとするのはやめていただきたいものです。まったく。モノ扱いされるのにはもう飽き飽きしました。
ついでにいえば彼女について考えるのにも、もう飽き飽きしました。ここ数年、寝ても覚めても彼女のことを考えていたといっても過言ではありません。(いや、過言だけど)
敏感な部分に火傷を負ってヒリヒリと痛むとしたら、四六時中その痛みを意識して生活せざるを得ないでしょう。それと同じようなものです。けして考えたくて考えていたわけではない。
彼女の生育暦、彼女が育った社会背景、現代日本で妻であり母である(あった)ということ。いったいなぜ、どのようにして彼女はあのような妖怪(*)チックな存在に変貌を遂げたのか。いつから?もともと?私が気づかなかっただけ?
一番身近だと思っていた人間がいつのまにか理解不能な化け物に変身しているというのはホラーの定番のひとつですが、まさにリアルホラーです。
この謎を私なりに納得がいくところまで解かないと、先にすすめない。大げさにいえば生きていけなかったのでした。
(*)ちなみにどんな妖怪かというと、私からみた彼女というのは、「私がどんなに拒否しても、泣いても喚いても殴りつけてもにっこり微笑みつづけ、100%の善意でもって私をナイフで刺そうとする」ような存在です。あくまでイメージですが。
いったい私にとって彼女とはなんなのか。私という存在は、どこまでが私のもので、どこまでが彼女から与えられたモノなのだろうという疑問。
おそらく、私は私のものでもなくましてや彼女の作品などではまったくないのではありましょうが……。
母親との一騒動が終わって家の中で荒い息をついていた時、なんだか妙に手のひらがねとねとするなと気づいたのでした。そうだ、これは彼女の髪の毛をつかんでいたその名残りだ。ああなんだか手のひらがねとねとする。
いまや私にとっての母親とはこの「ねとねと」が象徴するような気色の悪いうざったいものなのだが、かつて幼い私にとっては彼女は全世界であり私そのものでありとにかく絶対的な安心基地だったはずで、そのお花畑のような「ママ」のイメージと、この「ねとねと」がどうにも結びつかないのでした。
いやだってこれはあまりにもあまりにもじゃないか。両極すぎる。ムリ。重ね合わせられない。これは私の許容範囲を超える。日本語は通じても言葉は通じない今の彼女と、私の記憶の中にある幻想の「母」とが同一人物?
人は変わるものだとか、人間存在ってやつはまったく奥が深いねえ怖いねえとかそういう言葉で納得できる事態ではないのだった。コトは世界への信頼感に関わる問題だ。私にとっての世界はなんだかひびがはいってずれてしまっている。あっちとこっちがつながらない。でもじゃあ「やっぱりあの人(母親)、ヘンだよね」と確信できるようになる前は世界は一枚岩だったのかというとそうでもないはずで、ようやくそのずれにピントがあってきたといえるのかもしれないけれど。しかしまあこの先、何を信じていけばよいのやら。公式見解は「仲間」なんでしょうけど、一度あったことが二度はないと、誰に保障できる?突然、相手が言葉の通じない存在に豹変したりしないという保障は?特定個人ではなく不特定多数だというのがミソか?それとも「仲間」じゃなくて「自分」か?あーもーよくわからん。
というようなぐるぐるとした思考を飽きもせずやっていたわけで、つまり「私はこんな事実、信じたくない、認めたくない、受け入れたくない、だからぐちゃぐちゃいろいろ考えてます」状態だったわけで、というかべつに過去形でもないんですが。
とにかく、かように母的存在との葛藤というものはなかなかにめんどくさいものなのです。(わざわざ私が言わなくても、私以上に身にしみてわかっていらっしゃる方は山のようにおられると思いますが。)
とはいえ、ここまでは前置きで、実は本題はここからなのでした。
そんな母との大騒ぎがあった翌日、父から一通のメールが来ました。
『毎日暑い
古希の集まりには来ない?
まだ癌細胞が残っているので何時再発するかわからない
それまでに 一度君と会いたい
それから、過去何があったかわからないが
かりそめにも君の母親だ暴力はいけない
その気になったら連絡乞う』
他人が読んだらなんということもない文面でしょうが、私は怒りではらわたが煮えくりかえりましたね。この怒りにくらべれば、今回の母親とのことなど、半分笑い話のようなものです。
ふざけんなてめえ、自分のことは棚に上げて、したり顔で説教かよ、お前はTVのワイドショーの無責任なコメンテーターか!だいたいなんで私がキサマの生誕70周年なぞ祝わにゃならんのだ、行くわけねーだろアタマおかしいんじゃねーか?!バカか?バカなのか?なんでそんなバカでいられるの?……というのが私の脳裏をかけめぐった言葉でしたが、それをそのまま表現するには私はお上品にすぎるので、もっと丁寧な言葉でしたためたのが以下の返信メールの文章です。
『○○○○○様
いただいたメールを、非常な怒りといささかの悲しみとともに拝読いたしました。あなたからのメールを読んでそういった気持ちになることは、初めてのことでもなく、また決して珍しいことでもないのですが。
はっきり言いますが、私はあなたがたご夫婦に対して、ずっと怒っているのです。何を怒っているのか、あなたがたにはきっとわからないでしょうし(わかるような種類の人たちでしたら、私の怒りがここまで大きくなることもなかったでしょう)、それをあなたがたに分かるような言葉で説明することも私にはできません。
ただ、いくらあなたが見ないふりをして否認しようと、確実に私の怒りは存在しているのです。それは私にもどうすることもできません。
あなたは、こうやって古稀の集いに誘ったり、何事もなかったかのようにふるまうことで、私に手を差し伸べているつもりかもしれません。父親としての慈愛と余裕をもって、不可解な娘に対して最大限の譲歩をしているつもりかもしれません。
想像してみてください。誰かがあなたに対して許せないことをして、あなたは激しく怒っている。その当の相手がへらへらと笑って近づいて来る。あるいは、「今度、飲みに来ないか」などとのんきに誘ってくる。何も謝らず(あるいは口先だけで謝って)、あなたの怒りを無視したまま。
あなたは、こいつはどこまで自分を侮辱するんだと思い、人間としての尊厳を無視されたような感覚になり、さらに激しい怒りと無力感を覚えるかもしれません。ならないかもしれません。あなたがそういう時、どういう気持ちになるのかは私にはわかりません。
ですが、あなたがたがしていることは、そういうことです。
>> それから、過去何があったかわからないが
>> かりそめにも君の母親だ暴力はいけない
母親ということと暴力はいけないということの間になんの関連性があるのかさっぱり分かりません。母親でない人には暴力をふるってもいいという意味でしょうか、まさか?
それはともかく、「暴力はいけない」ということぐらい、今時、小学生でも言えます。なんのためにわざわざこんなことを言ってくるのか理解に苦しみます。私が「そうか、暴力がいけないとは知らなかった、教えてくれてありがとう、申し訳なかった」などと言うとでも思ったのならあなたの知性を疑いますし、とりあえず正論を伝えておいて自分の「いい人」性を確保しておきたいがためでしたら、相変わらずですねとしかいいようがありません。
あなたの語る正論が私の役に立ったことはこれまで一度としてありません。あなたの語ってきた言葉は、わざわざあなたが語らなくてもTVや新聞にあふれているものばかりです。とすれば、はたしてあなたの存在意義はあるのでしょうか?
「何があったかわからないが」ではなく、「何があったか知ってしまうと責任が発生しそうだし面倒ごとには関わりたくないし、なるべく知ろうとしないように努めてきたが」の間違いではないですか?
私は△△(母の名)さんに対してははっきり書面で私の家に押しかけるようなことはしないでほしいと表明していました。それを無視して強引な接近をはかろうとする相手をやむなく強制排除しただけですので、何も悪いことをしたとは思っておりません。先にストーカー行為による精神的暴力の被害をこうむったのはこちらのほうです。
あなたが私に会いたいのなら、あなたは変わらなくてはなりません。今のままのあなたには、いくらあなたが余命いくばくもないことをちらつかせて同情を買おうとしても、私はまったく会いたいとは思いませんし、あなたがこの世からいなくなっても私は何の痛痒も感じません。
「私の妻が君の家に押しかけて、君にはたいへん迷惑をかけた。申し訳ない。今度、二度とこのようなことが起こらぬよう注意するので許してくれ。妻が娘の君に異常に執着するようになったのも、そもそもは自分が夫として至らなかったせいだ。そのツケを君に背負わせているのを、ずっと見て見ぬ振りをしていた。すまなかった。」
それぐらいのことが言えるようになれば、私もあなたを見直すかもしれませんが、おそらくあなたには無理でしょう。
私はどちらでもいいのです。あなたが変わろうと、変わるまいと。幸い、お互い、嫌いな相手と付き合う必要性はないわけですし。
ここまで書いたのは、私のあなたへのサービスです。あなたが変わるチャンスを提供したつもりですが、あなたは今のやり方のあなたのまま、残りの人生を全うしていってもいい。あなたにはもちろんその権利がある。
私は生まれてから一度としてあなたの涙を見たことがない。父親のあなたという人がどんな人なのか、ついに知らないままだった。
それではお元気で。
お互いを傷つけ合うだけの不毛なやりとりはしたくありませんので、これ以上の連絡はご遠慮くださいますようお願い申し上げます。』
いやまあ、せっかく書いたので、記念に他の方々にも読んでもらおうと思ってニューズレターに投稿しただけなんですけれども。
世の中、極悪人なんてそうそういない。私が本当に恐ろしいと思い、また傷ついてきたのは、あからさまな加害者よりも、その暴力構造を成り立たせている周囲。善意と無責任と無関心に満ちて、時に凶暴な好奇心を発揮する「普通の人々」だった。世の中とか常識とかいうシロモノを成り立たせている人々。よくよくみれば私の顔もその中にありそうな、人々。
いや、それとも私の「普通の人」イメージが歪んでいるのか?
何年も前、私がとある人(精神科医でしたが)からもらった言葉があります。
「本来、愛着の対象である母親を憎まなければいけないということは、とてもつらいことなんですよ」
「つらい道のりですよ、覚悟してください」
「あなたの傷はあなたが思っているより深い」
そう言われた当時、私は自分の傷などというものがあるとは思っていなかった。
今では、その傷の深さを目の前にして呆然と立ちすくんでいる(ことが多い)。自殺者多数のニュースなぞ見ても、「こんな世の中からとっととおさらばできてよかったね、あなたたち勝ち組だよ」としか思えないし。厭世観と自己嫌悪にまみれている日々。やってられん。
まあ呆然としながらも、今は仕事にはなんとか行けてるし、「普通の人」仮面はかぶれているわけで。それがいいことか悪いことかはわかりませんが。
そうそう、どうでもいいことなんですが、母親を足蹴にした時に、「親に向かってなんてことを!」などというなんとも新鮮というかクラシックなせりふを彼女が吐いたので、ついつい反射的に「親だと思ってねぇよ!」などと返してしまった自分に猛省。山といえば川、いいかなと聞けばいいとも!というように、定番のせりふが口から出てしまった。ああ恥ずかしい恥ずかしい。他人の土俵に乗ってしまった。悔しい。
いやいやめちゃくちゃ親だと思ってますよ。ただ私は「親からどんなことをされても親を無条件に許し崇め奉るべきだ」という信仰は共有していないので、その信仰にのっとったせりふを吐かれるととっさにその信仰ベースの決まり文句でしか反論できなかったということだと思いますけれども。実際には頭の中には「アンタが自分の親にできなかったことを私が代わりにやってやってんだよ!」という言葉が浮かんでいたのですが。
それにしても、皮肉でもなく反語でもなく、どうして私はこんなに親孝行なのだろうと自分で自分に感心する。世間的にみたら親不孝の極みと思われても不思議ではないはずなのに、なぜか根拠のない確信が私の中にはあるのだった。「私は罪深い人間だ」とか「ほんとの私を知ったら、人はみな私を嫌うに決まってる」とかそーいう系ではない確信が私の中にあるのは珍しい。
願わくば、いつか私の怒りが治まる時が来たとしても、私自身が今の私を嘲笑ったり恥じたり憎んだりすることのありませんように。
いかん、調子こいて長々と書いてしまったので、反動がくるかも。鬱の波がどぱーんと押し寄せてくるかも。気をつけよう。とはいっても、どうやって気をつけたらいいのやら。
私の無意識が気がすむまで、またウツウツしていることにします。それでは。長文を読んでくれてありがとう。また会いましょう。あなたが誰かは知らないけれど。
(追記)
この投稿文を書き上げてからなんだか調子がよい日を過ごしていたのですが、10月の終わりに母からメールが届きました。新展開です。
「Mさんへ
元気? 8月にいきなり訪ねて行って、あなたをびっくりさせてしまったのね。 色々考えたんだけど、ママのこと大嫌いなんだね。それほど 何年も何年も傷ついてきたのね。
ママはあなたのこと、わかりたいと思っているの、でも暴力はMさんらしくないわ。
あなたが会いたくなったら、いつでも連絡してきてね。ママより」
彼女がイっちゃってるモードの時はこのように一人称がママになるのが特徴なのでした。そしてたいてい「ママより」「あなたのお母さまより」などという言葉で締めくくられる。どうあっても母という権力の座は手放したくないらしい。
また、一見、理解にあふれているようにみえながらもよくよく読むと一切自分の非を認める文言はないという高度なテクニックが使われているのも見所です。
しかしねえ、「色々考えてようやくわかったんかーい!」と怒りとともにがっくり脱力しましたよ。
三年前、面と向かって「あなたのことはとても憎んでいる」と伝えたやんけ。絶縁状も送ったやんけ。公衆の面前でマイクをもって「とにかく彼女には私の前から消えてほしい」「今、手にもっているこのマイクで顔面を殴りつけてつぶれたトマトのようにしてやりたい、ナイフで腹をかっさばいて腸をひきずりだしてやりたい、それぐらい目の前にいる母に怒りをもってます」と、涙ながらに魂の叫びを吐き出したこともあったやんけ。(彼女も参加しているNABAワークショップの分かち合いでの出来事でした。)
しつこいようだけど三年前の無断侵入事件の時、「あなたが異常だとわかって私はとても嬉しい」「今回のことは許さないからね」と伝えたやんけ。彼女は、「そうよ、私、異常なの」と言ってにこにこしていたけれど。
……書けば書くほど、うん、やっぱりこの人ヘンだよね、この人をヘンだと思う私の感覚は間違ってないよね、という確信が生まれてきました。
問題なのは時間がたつとこの確信が薄れて「やっぱり私の感覚がおかしいんだろうか、それとも私の気持ちの伝え方に何か問題があるんだろうか、私が悪いのだろうか」という気分になってきてしまうことなんですが。というのも、何も知らないそこらの人に話してもきっと「いいご両親じゃないの」と言われてしまいそうだし。彼女は一見、「とても話のわかる、人間のできたいい人」にしか見えないし。
それにしても、そうだ、私のあの言葉で泣きながら彼女がワークショップ会場を出て行ったこともあった。私の怒りが届いたこともあったのだった。確かに。
おそらく、時間がたてばまたそのうち彼女の中で私の気持ちはなかったことになってしまうんだろうね。私はいったい何度、彼女の中で殺されるのだろう。
そしてあいかわらず彼女の書く文章は、さかさ言葉なのだった。あなたは私、私はあなたになっている。
「ママはあなたのことをわかりたい」というのは正確には「あなたにママのことをわかってもらいたい」でしょう。何を?「ママはあなたのことをとても愛してるし、Mちゃんはなにか誤解してるだけなの。ママはすばらしいママなの、完璧なの、何も悪くないの、誰にも責められる落ち度はないの。」ということを。そして彼女の孤独、抑圧している悲しみ・怒り・憎しみ・恨み・恐怖、彼女の気持ちすべてを。
いや知らんけど。たぶん、推測。
でも彼女の気持ちを受けとめるのは私の仕事じゃない。あえていうなら彼女の夫の仕事でしょう。夫がダメなら、社会だ、仲間だ。とにかく私の仕事じゃない。親の立場のグループだって紹介したんだし、もう私はやるべきことはすべてやった。後は知らん。いつまでもお幸せな妄想にふけっていたいのならそうしてればいいじゃない。ただし、私の境界線を犯してくるようなことがあれば容赦なく叩きのめす。もしもその場で対応できなくても、後でなんらかの形で必ず報復してやる。彼女には、私の許可なく私のテリトリーに立ち入る権利は断じてない。
猛烈な怒りの後には悲しみがやってくる。私はいつから存在をないものとされていたのだろうか。彼女が妄想の娘、「ママがいなきゃ何もできないかわいそうな可愛いMちゃん」の夢を見続けているあいだ、ひとりぼっちで無視され放っておかれていた私。最初から?思春期から?いつから?過去の記憶は霧の中だ。
そんなことより現在のこのねとねとくそばばあをなんとかしてほしい。こんなのを野放しにしておいていいのか。
私は自分の頭の中の悪意に満ちた声(インナーペアレンツとかいうやつか)と戦うのでいろいろと忙しいのだ。自分を憎んだり、憎まれたり、鬱ったりもしなきゃいけないし。
死ぬ前に自分の仕事を片付けていけ。口出ししてくるならちゃんと自分の責任もとれ。わずかでもいいから「父親が人として尊敬できる人だったらいいな」という娘の願いをかなえようと努力してみろ。あんたに言ってんだよ、父。
やることやってから死ね。
(長年鬱積した怒りのあまり、一部、乱暴な表現となってしまったことを、ここまで読んでくださった方々にお詫びいたします。不快な気分にさせてしまったらすみませんでした。……本当はすみませんとか思ってないけど。) 2011/12/08(木) 00:32:56 未分類 トラックバック:0 コメント:0
記念にこっちにも載せておこう。長いよ。
今、読み返してみると、「そんなこと小学生にもできる」とか書いちゃって小学生に悪いことしたなー、などと思う。
--------------------------------------------------------------------------------
「今年の夏の家族イベント報告」
こんにちは。○○○○メンバーのMです。(ハイ、M!)
今年の夏の暑さは異常でしたが、「いやー暑かった」と一息ついているあいだになんだかもう2010年も終わりがみえてきてしまいました。時間の流れが速すぎて、ついていけません。自分が今、36歳という年齢だということも、どうにも信じられないのですが、これは私が現実を生きてないからなのでしょうか。というか、現実を生きるってナニ?
……と、すぐに哲学的というか抽象的な方向に走ってしまうのが私の頭の癖なのですが、それはともかく、後々まで記憶に残りそうな今年の猛暑にちなんで、真夏の怪談(?)をひとつ。
私が平和な抑うつライフを満喫していた8月のある夜のことでした。
ストーカー母(と私は名づけている)が突然、何の前触れもなく一人住まいの私の家を訪ねてきたのでした。前回、彼女が私の家に無断侵入していた事件から約三年ぶりのお宅訪問です。
チェーンごしに「あなたとする話はありません。帰りなさい!」と言ってドアを閉めたのですが、ドアごしにやくたいもないことを一方的に話し続けていていっこうに帰ろうとしないので、私は何度もドアを開けては65歳の母に対して、ひっぱたいたりつかみあったり足蹴にしたり塩をまいたりバケツに水をくんできて浴びせたりと奮闘し、ようやく撃退に成功したのでした。
いえ、撃退したというほど格好いいものでもなく、あの手この手を尽くしてなんとか祟り神さまにお帰りいただいた、というのが正直なところです。階段から突き落として大怪我させるわけにもいかないですしねえ。(私の家はアパートの二階なのです。)
といいますか、大怪我自体はしてもらってもいっこうに構わないのですが、私とは関わりのない場所で私とは関係なく怪我してほしい。とにかく私は彼女と関わりたくない。というか彼女から関わられたくない。もうまっぴらだ。
「摂食障害で苦しんでいるかわいそうな娘(←彼女からは私はこう見えるらしい)の心に寄り添い、包み込み、大きな愛で娘を救うすばらしい母親」プレイを彼女がしたがるのは自由ですけれども、私を勝手に巻きこんで私をその小道具にしようとするのはやめていただきたいものです。まったく。モノ扱いされるのにはもう飽き飽きしました。
ついでにいえば彼女について考えるのにも、もう飽き飽きしました。ここ数年、寝ても覚めても彼女のことを考えていたといっても過言ではありません。(いや、過言だけど)
敏感な部分に火傷を負ってヒリヒリと痛むとしたら、四六時中その痛みを意識して生活せざるを得ないでしょう。それと同じようなものです。けして考えたくて考えていたわけではない。
彼女の生育暦、彼女が育った社会背景、現代日本で妻であり母である(あった)ということ。いったいなぜ、どのようにして彼女はあのような妖怪(*)チックな存在に変貌を遂げたのか。いつから?もともと?私が気づかなかっただけ?
一番身近だと思っていた人間がいつのまにか理解不能な化け物に変身しているというのはホラーの定番のひとつですが、まさにリアルホラーです。
この謎を私なりに納得がいくところまで解かないと、先にすすめない。大げさにいえば生きていけなかったのでした。
(*)ちなみにどんな妖怪かというと、私からみた彼女というのは、「私がどんなに拒否しても、泣いても喚いても殴りつけてもにっこり微笑みつづけ、100%の善意でもって私をナイフで刺そうとする」ような存在です。あくまでイメージですが。
いったい私にとって彼女とはなんなのか。私という存在は、どこまでが私のもので、どこまでが彼女から与えられたモノなのだろうという疑問。
おそらく、私は私のものでもなくましてや彼女の作品などではまったくないのではありましょうが……。
母親との一騒動が終わって家の中で荒い息をついていた時、なんだか妙に手のひらがねとねとするなと気づいたのでした。そうだ、これは彼女の髪の毛をつかんでいたその名残りだ。ああなんだか手のひらがねとねとする。
いまや私にとっての母親とはこの「ねとねと」が象徴するような気色の悪いうざったいものなのだが、かつて幼い私にとっては彼女は全世界であり私そのものでありとにかく絶対的な安心基地だったはずで、そのお花畑のような「ママ」のイメージと、この「ねとねと」がどうにも結びつかないのでした。
いやだってこれはあまりにもあまりにもじゃないか。両極すぎる。ムリ。重ね合わせられない。これは私の許容範囲を超える。日本語は通じても言葉は通じない今の彼女と、私の記憶の中にある幻想の「母」とが同一人物?
人は変わるものだとか、人間存在ってやつはまったく奥が深いねえ怖いねえとかそういう言葉で納得できる事態ではないのだった。コトは世界への信頼感に関わる問題だ。私にとっての世界はなんだかひびがはいってずれてしまっている。あっちとこっちがつながらない。でもじゃあ「やっぱりあの人(母親)、ヘンだよね」と確信できるようになる前は世界は一枚岩だったのかというとそうでもないはずで、ようやくそのずれにピントがあってきたといえるのかもしれないけれど。しかしまあこの先、何を信じていけばよいのやら。公式見解は「仲間」なんでしょうけど、一度あったことが二度はないと、誰に保障できる?突然、相手が言葉の通じない存在に豹変したりしないという保障は?特定個人ではなく不特定多数だというのがミソか?それとも「仲間」じゃなくて「自分」か?あーもーよくわからん。
というようなぐるぐるとした思考を飽きもせずやっていたわけで、つまり「私はこんな事実、信じたくない、認めたくない、受け入れたくない、だからぐちゃぐちゃいろいろ考えてます」状態だったわけで、というかべつに過去形でもないんですが。
とにかく、かように母的存在との葛藤というものはなかなかにめんどくさいものなのです。(わざわざ私が言わなくても、私以上に身にしみてわかっていらっしゃる方は山のようにおられると思いますが。)
とはいえ、ここまでは前置きで、実は本題はここからなのでした。
そんな母との大騒ぎがあった翌日、父から一通のメールが来ました。
『毎日暑い
古希の集まりには来ない?
まだ癌細胞が残っているので何時再発するかわからない
それまでに 一度君と会いたい
それから、過去何があったかわからないが
かりそめにも君の母親だ暴力はいけない
その気になったら連絡乞う』
他人が読んだらなんということもない文面でしょうが、私は怒りではらわたが煮えくりかえりましたね。この怒りにくらべれば、今回の母親とのことなど、半分笑い話のようなものです。
ふざけんなてめえ、自分のことは棚に上げて、したり顔で説教かよ、お前はTVのワイドショーの無責任なコメンテーターか!だいたいなんで私がキサマの生誕70周年なぞ祝わにゃならんのだ、行くわけねーだろアタマおかしいんじゃねーか?!バカか?バカなのか?なんでそんなバカでいられるの?……というのが私の脳裏をかけめぐった言葉でしたが、それをそのまま表現するには私はお上品にすぎるので、もっと丁寧な言葉でしたためたのが以下の返信メールの文章です。
『○○○○○様
いただいたメールを、非常な怒りといささかの悲しみとともに拝読いたしました。あなたからのメールを読んでそういった気持ちになることは、初めてのことでもなく、また決して珍しいことでもないのですが。
はっきり言いますが、私はあなたがたご夫婦に対して、ずっと怒っているのです。何を怒っているのか、あなたがたにはきっとわからないでしょうし(わかるような種類の人たちでしたら、私の怒りがここまで大きくなることもなかったでしょう)、それをあなたがたに分かるような言葉で説明することも私にはできません。
ただ、いくらあなたが見ないふりをして否認しようと、確実に私の怒りは存在しているのです。それは私にもどうすることもできません。
あなたは、こうやって古稀の集いに誘ったり、何事もなかったかのようにふるまうことで、私に手を差し伸べているつもりかもしれません。父親としての慈愛と余裕をもって、不可解な娘に対して最大限の譲歩をしているつもりかもしれません。
想像してみてください。誰かがあなたに対して許せないことをして、あなたは激しく怒っている。その当の相手がへらへらと笑って近づいて来る。あるいは、「今度、飲みに来ないか」などとのんきに誘ってくる。何も謝らず(あるいは口先だけで謝って)、あなたの怒りを無視したまま。
あなたは、こいつはどこまで自分を侮辱するんだと思い、人間としての尊厳を無視されたような感覚になり、さらに激しい怒りと無力感を覚えるかもしれません。ならないかもしれません。あなたがそういう時、どういう気持ちになるのかは私にはわかりません。
ですが、あなたがたがしていることは、そういうことです。
>> それから、過去何があったかわからないが
>> かりそめにも君の母親だ暴力はいけない
母親ということと暴力はいけないということの間になんの関連性があるのかさっぱり分かりません。母親でない人には暴力をふるってもいいという意味でしょうか、まさか?
それはともかく、「暴力はいけない」ということぐらい、今時、小学生でも言えます。なんのためにわざわざこんなことを言ってくるのか理解に苦しみます。私が「そうか、暴力がいけないとは知らなかった、教えてくれてありがとう、申し訳なかった」などと言うとでも思ったのならあなたの知性を疑いますし、とりあえず正論を伝えておいて自分の「いい人」性を確保しておきたいがためでしたら、相変わらずですねとしかいいようがありません。
あなたの語る正論が私の役に立ったことはこれまで一度としてありません。あなたの語ってきた言葉は、わざわざあなたが語らなくてもTVや新聞にあふれているものばかりです。とすれば、はたしてあなたの存在意義はあるのでしょうか?
「何があったかわからないが」ではなく、「何があったか知ってしまうと責任が発生しそうだし面倒ごとには関わりたくないし、なるべく知ろうとしないように努めてきたが」の間違いではないですか?
私は△△(母の名)さんに対してははっきり書面で私の家に押しかけるようなことはしないでほしいと表明していました。それを無視して強引な接近をはかろうとする相手をやむなく強制排除しただけですので、何も悪いことをしたとは思っておりません。先にストーカー行為による精神的暴力の被害をこうむったのはこちらのほうです。
あなたが私に会いたいのなら、あなたは変わらなくてはなりません。今のままのあなたには、いくらあなたが余命いくばくもないことをちらつかせて同情を買おうとしても、私はまったく会いたいとは思いませんし、あなたがこの世からいなくなっても私は何の痛痒も感じません。
「私の妻が君の家に押しかけて、君にはたいへん迷惑をかけた。申し訳ない。今度、二度とこのようなことが起こらぬよう注意するので許してくれ。妻が娘の君に異常に執着するようになったのも、そもそもは自分が夫として至らなかったせいだ。そのツケを君に背負わせているのを、ずっと見て見ぬ振りをしていた。すまなかった。」
それぐらいのことが言えるようになれば、私もあなたを見直すかもしれませんが、おそらくあなたには無理でしょう。
私はどちらでもいいのです。あなたが変わろうと、変わるまいと。幸い、お互い、嫌いな相手と付き合う必要性はないわけですし。
ここまで書いたのは、私のあなたへのサービスです。あなたが変わるチャンスを提供したつもりですが、あなたは今のやり方のあなたのまま、残りの人生を全うしていってもいい。あなたにはもちろんその権利がある。
私は生まれてから一度としてあなたの涙を見たことがない。父親のあなたという人がどんな人なのか、ついに知らないままだった。
それではお元気で。
お互いを傷つけ合うだけの不毛なやりとりはしたくありませんので、これ以上の連絡はご遠慮くださいますようお願い申し上げます。』
いやまあ、せっかく書いたので、記念に他の方々にも読んでもらおうと思ってニューズレターに投稿しただけなんですけれども。
世の中、極悪人なんてそうそういない。私が本当に恐ろしいと思い、また傷ついてきたのは、あからさまな加害者よりも、その暴力構造を成り立たせている周囲。善意と無責任と無関心に満ちて、時に凶暴な好奇心を発揮する「普通の人々」だった。世の中とか常識とかいうシロモノを成り立たせている人々。よくよくみれば私の顔もその中にありそうな、人々。
いや、それとも私の「普通の人」イメージが歪んでいるのか?
何年も前、私がとある人(精神科医でしたが)からもらった言葉があります。
「本来、愛着の対象である母親を憎まなければいけないということは、とてもつらいことなんですよ」
「つらい道のりですよ、覚悟してください」
「あなたの傷はあなたが思っているより深い」
そう言われた当時、私は自分の傷などというものがあるとは思っていなかった。
今では、その傷の深さを目の前にして呆然と立ちすくんでいる(ことが多い)。自殺者多数のニュースなぞ見ても、「こんな世の中からとっととおさらばできてよかったね、あなたたち勝ち組だよ」としか思えないし。厭世観と自己嫌悪にまみれている日々。やってられん。
まあ呆然としながらも、今は仕事にはなんとか行けてるし、「普通の人」仮面はかぶれているわけで。それがいいことか悪いことかはわかりませんが。
そうそう、どうでもいいことなんですが、母親を足蹴にした時に、「親に向かってなんてことを!」などというなんとも新鮮というかクラシックなせりふを彼女が吐いたので、ついつい反射的に「親だと思ってねぇよ!」などと返してしまった自分に猛省。山といえば川、いいかなと聞けばいいとも!というように、定番のせりふが口から出てしまった。ああ恥ずかしい恥ずかしい。他人の土俵に乗ってしまった。悔しい。
いやいやめちゃくちゃ親だと思ってますよ。ただ私は「親からどんなことをされても親を無条件に許し崇め奉るべきだ」という信仰は共有していないので、その信仰にのっとったせりふを吐かれるととっさにその信仰ベースの決まり文句でしか反論できなかったということだと思いますけれども。実際には頭の中には「アンタが自分の親にできなかったことを私が代わりにやってやってんだよ!」という言葉が浮かんでいたのですが。
それにしても、皮肉でもなく反語でもなく、どうして私はこんなに親孝行なのだろうと自分で自分に感心する。世間的にみたら親不孝の極みと思われても不思議ではないはずなのに、なぜか根拠のない確信が私の中にはあるのだった。「私は罪深い人間だ」とか「ほんとの私を知ったら、人はみな私を嫌うに決まってる」とかそーいう系ではない確信が私の中にあるのは珍しい。
願わくば、いつか私の怒りが治まる時が来たとしても、私自身が今の私を嘲笑ったり恥じたり憎んだりすることのありませんように。
いかん、調子こいて長々と書いてしまったので、反動がくるかも。鬱の波がどぱーんと押し寄せてくるかも。気をつけよう。とはいっても、どうやって気をつけたらいいのやら。
私の無意識が気がすむまで、またウツウツしていることにします。それでは。長文を読んでくれてありがとう。また会いましょう。あなたが誰かは知らないけれど。
(追記)
この投稿文を書き上げてからなんだか調子がよい日を過ごしていたのですが、10月の終わりに母からメールが届きました。新展開です。
「Mさんへ
元気? 8月にいきなり訪ねて行って、あなたをびっくりさせてしまったのね。 色々考えたんだけど、ママのこと大嫌いなんだね。それほど 何年も何年も傷ついてきたのね。
ママはあなたのこと、わかりたいと思っているの、でも暴力はMさんらしくないわ。
あなたが会いたくなったら、いつでも連絡してきてね。ママより」
彼女がイっちゃってるモードの時はこのように一人称がママになるのが特徴なのでした。そしてたいてい「ママより」「あなたのお母さまより」などという言葉で締めくくられる。どうあっても母という権力の座は手放したくないらしい。
また、一見、理解にあふれているようにみえながらもよくよく読むと一切自分の非を認める文言はないという高度なテクニックが使われているのも見所です。
しかしねえ、「色々考えてようやくわかったんかーい!」と怒りとともにがっくり脱力しましたよ。
三年前、面と向かって「あなたのことはとても憎んでいる」と伝えたやんけ。絶縁状も送ったやんけ。公衆の面前でマイクをもって「とにかく彼女には私の前から消えてほしい」「今、手にもっているこのマイクで顔面を殴りつけてつぶれたトマトのようにしてやりたい、ナイフで腹をかっさばいて腸をひきずりだしてやりたい、それぐらい目の前にいる母に怒りをもってます」と、涙ながらに魂の叫びを吐き出したこともあったやんけ。(彼女も参加しているNABAワークショップの分かち合いでの出来事でした。)
しつこいようだけど三年前の無断侵入事件の時、「あなたが異常だとわかって私はとても嬉しい」「今回のことは許さないからね」と伝えたやんけ。彼女は、「そうよ、私、異常なの」と言ってにこにこしていたけれど。
……書けば書くほど、うん、やっぱりこの人ヘンだよね、この人をヘンだと思う私の感覚は間違ってないよね、という確信が生まれてきました。
問題なのは時間がたつとこの確信が薄れて「やっぱり私の感覚がおかしいんだろうか、それとも私の気持ちの伝え方に何か問題があるんだろうか、私が悪いのだろうか」という気分になってきてしまうことなんですが。というのも、何も知らないそこらの人に話してもきっと「いいご両親じゃないの」と言われてしまいそうだし。彼女は一見、「とても話のわかる、人間のできたいい人」にしか見えないし。
それにしても、そうだ、私のあの言葉で泣きながら彼女がワークショップ会場を出て行ったこともあった。私の怒りが届いたこともあったのだった。確かに。
おそらく、時間がたてばまたそのうち彼女の中で私の気持ちはなかったことになってしまうんだろうね。私はいったい何度、彼女の中で殺されるのだろう。
そしてあいかわらず彼女の書く文章は、さかさ言葉なのだった。あなたは私、私はあなたになっている。
「ママはあなたのことをわかりたい」というのは正確には「あなたにママのことをわかってもらいたい」でしょう。何を?「ママはあなたのことをとても愛してるし、Mちゃんはなにか誤解してるだけなの。ママはすばらしいママなの、完璧なの、何も悪くないの、誰にも責められる落ち度はないの。」ということを。そして彼女の孤独、抑圧している悲しみ・怒り・憎しみ・恨み・恐怖、彼女の気持ちすべてを。
いや知らんけど。たぶん、推測。
でも彼女の気持ちを受けとめるのは私の仕事じゃない。あえていうなら彼女の夫の仕事でしょう。夫がダメなら、社会だ、仲間だ。とにかく私の仕事じゃない。親の立場のグループだって紹介したんだし、もう私はやるべきことはすべてやった。後は知らん。いつまでもお幸せな妄想にふけっていたいのならそうしてればいいじゃない。ただし、私の境界線を犯してくるようなことがあれば容赦なく叩きのめす。もしもその場で対応できなくても、後でなんらかの形で必ず報復してやる。彼女には、私の許可なく私のテリトリーに立ち入る権利は断じてない。
猛烈な怒りの後には悲しみがやってくる。私はいつから存在をないものとされていたのだろうか。彼女が妄想の娘、「ママがいなきゃ何もできないかわいそうな可愛いMちゃん」の夢を見続けているあいだ、ひとりぼっちで無視され放っておかれていた私。最初から?思春期から?いつから?過去の記憶は霧の中だ。
そんなことより現在のこのねとねとくそばばあをなんとかしてほしい。こんなのを野放しにしておいていいのか。
私は自分の頭の中の悪意に満ちた声(インナーペアレンツとかいうやつか)と戦うのでいろいろと忙しいのだ。自分を憎んだり、憎まれたり、鬱ったりもしなきゃいけないし。
死ぬ前に自分の仕事を片付けていけ。口出ししてくるならちゃんと自分の責任もとれ。わずかでもいいから「父親が人として尊敬できる人だったらいいな」という娘の願いをかなえようと努力してみろ。あんたに言ってんだよ、父。
やることやってから死ね。
(長年鬱積した怒りのあまり、一部、乱暴な表現となってしまったことを、ここまで読んでくださった方々にお詫びいたします。不快な気分にさせてしまったらすみませんでした。……本当はすみませんとか思ってないけど。) 2011/12/08(木) 00:32:56 未分類 トラックバック:0 コメント:0
対人関係療法・性・家族
つらつら書いてから書いてある内容に則して記事タイトルつけたら、なんかちょっと学術書のタイトルみたいになった。なってませんか?なってないか。べつになってないな。
近況報告。
通院して対人関係療法を受けてる最中。
これ、やってるとこがほとんどないので、申し込んでから実際に始めるまでに1年ぐらい待ったなあ。
しかし、12回から16回で終了する療法とか本には書いてありましたが、現在16回ぐらいでいまだにフォーミュレーションならずというつまりまだ本格的に課題にとりくむ前の状態という予想外の展開。
正確にいうと、一回フォーミュレーションには至ったんですが
「はい、この解釈とそれに基づくこの課題でどうでしょう」
「うーん、まあ出社拒否をなんとかするためなら嫌だけどまあしょうがないから取り組んでみますかレベルのハードルの高さですね」
「いえ、今回のは摂食障害用で、出社拒否という問題に対応するにはまたべつにみていかないと。結果として同じようなフォーミュレーションになる可能性はありますが」
「えっ、いやそもそも私の主訴は摂食障害ではないですし、摂食障害を治してほしいなんてこと一言も言った覚えは……」
「えっ」
みたいなやりとりがありまして、また1から(でもないけど)やりなおしという状態で。
まあさらに正確にいえば実際のやりとりはまた違ったんですが人に説明する用に脳内作成してみたらこんな感じかなという。
ちなみに私もふぉーみゅれーしょんってなんなのかよくわかってないので、フォーミュレーションって何?という質問はしてこないでください。私の頭がよかったら人に説明できるだろうに…….。
ええまあでも、なんだかんだで振り返ってみると去年はしんどかったなあと思うし、その前の年はその10倍ぐらいしんどかったなあと思うし、なんか確実にまあいろいろラクになってるのはいいことです。今のところ。
ふと思ったのですが、セックスって「ラブ&ピース」的な「殺しあうより愛しあおう、愛しあってるかーい?」的な、ヒッピー文化におけるフリーセックス的なそういう暴力の対義語的なニュアンスでとらえられてる一面があり。
一方で「従軍慰安婦」だの民族浄化だのあるいは個人的なレベルで家庭内家庭外問わずそこらに満ち溢れている性暴力としてもあるわけで。
(というか、後者のほうが私としてはなじみぶかいなあ)
と当たり前のことを思って私は何を考えたんだっけ。
えーと。
どうでもいいけど、「的」って言葉、何回つかったかしら。
つまりあれだ、性教育における「性とは本来、人間同士の触れ合いでありすばらしいものです」的言辞のウソくささ・うすっぺらさと「家族とは本来あたたかくて必須のもの」主張との共通点というかだ。
「家族ってあたたかくてサイコー、家族の絆万歳!一番だいじなのは家族!」と「セックスとは、愛し合う人間同士のあたたかいふれあいで云々」な性教育にありがちな言辞って同じなのかなあと。セックスというか性暴力がどれだけ人間を破壊するか・家族というハコの中でどれだけの暴力があるか、という危険性に目を向けないという意味で。
正しい性・正しい家族は人を傷つけないもので、ときどき間違って人を傷つけることがあるけどそれは正しくない性や家族の在りかただから、みたいな論調に違和感を感じるんだと思う。
正しかったら安全なのか?いや、その「正しい性・家族」自体が危険をはらんでないか?と。
しつけと虐待に境目がないのと同様、「私たち愛しあってて愛の行為してます」と本人たちが思ってる関係が他者からみたら「いやそりゃ暴力だよ……」なことはあるだろうし。
注:いわゆるSMが他人からみたら暴力とかそういう例についてではなく。結婚とかそいういうテンプレというか制度がもつそれ自体の暴力性みたいなことを言いたいんだけど、あいかわらず論理的知性に恵まれてないままなのでうまく説明できない。
なんでこんなことをぐだぐだ考えるはめになったかというと、「自分にとってのエロ」に焦点をあてたからですね。自分が何をエロイと感じるのか、何に萌えるのか。それはなんでか。
あなたとはあなたの欲望のことです。
あなたは何を望み、何に向かっているのか。
女性の性欲が無いことにされてる現状、「在る」と表明したら危険なことになる現状。
主体性。選ぶこと。
「私は何を期待されているのか」ではなく「私は何を期待しているのか」にスタンスをずらずこと。
自分の欲望を恥じる=自分を恥じる?
そんなことをつらつら考えてたら日曜が終わりそうですよ。部屋の片付けが!今日も!できなかった!
一生このまま「部屋の片付けしないと」と思い、いつか来る引越しを恐れて生きていくのか。ヤダ、そんなの。
私は何を望んでるのかですって?
選ぶ力、捨てる力ですよ。
なんかもー、「片付けできない」「母親うぜえ」というグチ以外にブログで語ることないのかって話ですよ。
まいたけクッキーでも食べる。 2011/09/11(日) 18:34:15 未分類 トラックバック:0 コメント:2
近況報告。
通院して対人関係療法を受けてる最中。
これ、やってるとこがほとんどないので、申し込んでから実際に始めるまでに1年ぐらい待ったなあ。
しかし、12回から16回で終了する療法とか本には書いてありましたが、現在16回ぐらいでいまだにフォーミュレーションならずというつまりまだ本格的に課題にとりくむ前の状態という予想外の展開。
正確にいうと、一回フォーミュレーションには至ったんですが
「はい、この解釈とそれに基づくこの課題でどうでしょう」
「うーん、まあ出社拒否をなんとかするためなら嫌だけどまあしょうがないから取り組んでみますかレベルのハードルの高さですね」
「いえ、今回のは摂食障害用で、出社拒否という問題に対応するにはまたべつにみていかないと。結果として同じようなフォーミュレーションになる可能性はありますが」
「えっ、いやそもそも私の主訴は摂食障害ではないですし、摂食障害を治してほしいなんてこと一言も言った覚えは……」
「えっ」
みたいなやりとりがありまして、また1から(でもないけど)やりなおしという状態で。
まあさらに正確にいえば実際のやりとりはまた違ったんですが人に説明する用に脳内作成してみたらこんな感じかなという。
ちなみに私もふぉーみゅれーしょんってなんなのかよくわかってないので、フォーミュレーションって何?という質問はしてこないでください。私の頭がよかったら人に説明できるだろうに…….。
ええまあでも、なんだかんだで振り返ってみると去年はしんどかったなあと思うし、その前の年はその10倍ぐらいしんどかったなあと思うし、なんか確実にまあいろいろラクになってるのはいいことです。今のところ。
ふと思ったのですが、セックスって「ラブ&ピース」的な「殺しあうより愛しあおう、愛しあってるかーい?」的な、ヒッピー文化におけるフリーセックス的なそういう暴力の対義語的なニュアンスでとらえられてる一面があり。
一方で「従軍慰安婦」だの民族浄化だのあるいは個人的なレベルで家庭内家庭外問わずそこらに満ち溢れている性暴力としてもあるわけで。
(というか、後者のほうが私としてはなじみぶかいなあ)
と当たり前のことを思って私は何を考えたんだっけ。
えーと。
どうでもいいけど、「的」って言葉、何回つかったかしら。
つまりあれだ、性教育における「性とは本来、人間同士の触れ合いでありすばらしいものです」的言辞のウソくささ・うすっぺらさと「家族とは本来あたたかくて必須のもの」主張との共通点というかだ。
「家族ってあたたかくてサイコー、家族の絆万歳!一番だいじなのは家族!」と「セックスとは、愛し合う人間同士のあたたかいふれあいで云々」な性教育にありがちな言辞って同じなのかなあと。セックスというか性暴力がどれだけ人間を破壊するか・家族というハコの中でどれだけの暴力があるか、という危険性に目を向けないという意味で。
正しい性・正しい家族は人を傷つけないもので、ときどき間違って人を傷つけることがあるけどそれは正しくない性や家族の在りかただから、みたいな論調に違和感を感じるんだと思う。
正しかったら安全なのか?いや、その「正しい性・家族」自体が危険をはらんでないか?と。
しつけと虐待に境目がないのと同様、「私たち愛しあってて愛の行為してます」と本人たちが思ってる関係が他者からみたら「いやそりゃ暴力だよ……」なことはあるだろうし。
注:いわゆるSMが他人からみたら暴力とかそういう例についてではなく。結婚とかそいういうテンプレというか制度がもつそれ自体の暴力性みたいなことを言いたいんだけど、あいかわらず論理的知性に恵まれてないままなのでうまく説明できない。
なんでこんなことをぐだぐだ考えるはめになったかというと、「自分にとってのエロ」に焦点をあてたからですね。自分が何をエロイと感じるのか、何に萌えるのか。それはなんでか。
あなたとはあなたの欲望のことです。
あなたは何を望み、何に向かっているのか。
女性の性欲が無いことにされてる現状、「在る」と表明したら危険なことになる現状。
主体性。選ぶこと。
「私は何を期待されているのか」ではなく「私は何を期待しているのか」にスタンスをずらずこと。
自分の欲望を恥じる=自分を恥じる?
そんなことをつらつら考えてたら日曜が終わりそうですよ。部屋の片付けが!今日も!できなかった!
一生このまま「部屋の片付けしないと」と思い、いつか来る引越しを恐れて生きていくのか。ヤダ、そんなの。
私は何を望んでるのかですって?
選ぶ力、捨てる力ですよ。
なんかもー、「片付けできない」「母親うぜえ」というグチ以外にブログで語ることないのかって話ですよ。
まいたけクッキーでも食べる。 2011/09/11(日) 18:34:15 未分類 トラックバック:0 コメント:2
もう夏も終わりが見えてきたので。
自由研究も自由時間も自由演技も日記も読者感想文もすべて恐怖の対象でこの世からなくなればいいと思っていた学校時代。
もう学校に行かなくていいし夏休みもないってなんてすばらしいんだ!
夏休みなんて後半ホントに鬱ってたという記憶しかあらしまへん。もうすぐ夏休みが終わってしまうという恐怖と不安に満ち満ちて過ごした夏休み……。
生まれ変わっても子どもにはなりたくないよ。
しかしどうして私には「子どもを守ろう」「子どもを大切に」という気持ちがわいてこないのだろうか。
もちろん子どもは守られるべきだと思うし、今のチャイルドヘイトな世の中がこのままでいいなんてさらさら思っちゃいませんが、それは頭で思考してるだけなんだ。感情レベルでなんかこう……出てきません。
それはべつに私が自分の子どもを持っていないからというわけではなくてですね。独身子なしで、次世代の子どもたちのために具体的に活動している人はなんぼでもいるわけですし。というかだな、そういう知り合いを見て、「なんで私にはそういう気持ちがないんだろう」と疑問をもつわけです。
で、それは私が心理的に自分の子ども時代と切り離されてるからではないかと。子どもの頃のことなんて遠い昔過ぎてほとんど思い出せないし。というか感情移入できない。なんか他人事。
児童虐待や嬰児殺しのニュースを聞いても、全然、かわいそうにって気持ちは出てこないのだ。
怒りは感じるんだけど。「母親は、父親は、そして両親をサポートするはずの社会システムはいったいどうなっとるんだ、何してたんだ、今のシステムあかんやろ。親が追い詰められないで子育てできるような環境つくらなきゃならないし、運悪く危険な親にあたってしまった子どもは必ず一定数出るんだからそういう時なんとかできるようにしとかなきゃいかないでしょ。」と。
まあそう思うだけで、具体的には行動しないんですが。デモに行ったこともない、ニュースも見ない、ダメ社会人だと自分では思っております。
しかし、仕事してなかった頃はな。「仕事さえできたら、自分は合格できるんだ」と思ってたのにな。仕事に行けるようになったら「仕事に行けて当たり前。きちんと社会的活動もしなければ合格しません。」ってなっちゃうんだもんな。ハードルが上がるので、いつまでたっても合格しませんよ。自分内「生きてていいぞ試験」に。まあ受からなくっても生きてますけどね。
いいことあってテンション上がったので、内容関係ないけど日記を書いてみた。 2011/08/25(木) 23:45:15 未分類 トラックバック:0 コメント:0
次のページ
もう学校に行かなくていいし夏休みもないってなんてすばらしいんだ!
夏休みなんて後半ホントに鬱ってたという記憶しかあらしまへん。もうすぐ夏休みが終わってしまうという恐怖と不安に満ち満ちて過ごした夏休み……。
生まれ変わっても子どもにはなりたくないよ。
しかしどうして私には「子どもを守ろう」「子どもを大切に」という気持ちがわいてこないのだろうか。
もちろん子どもは守られるべきだと思うし、今のチャイルドヘイトな世の中がこのままでいいなんてさらさら思っちゃいませんが、それは頭で思考してるだけなんだ。感情レベルでなんかこう……出てきません。
それはべつに私が自分の子どもを持っていないからというわけではなくてですね。独身子なしで、次世代の子どもたちのために具体的に活動している人はなんぼでもいるわけですし。というかだな、そういう知り合いを見て、「なんで私にはそういう気持ちがないんだろう」と疑問をもつわけです。
で、それは私が心理的に自分の子ども時代と切り離されてるからではないかと。子どもの頃のことなんて遠い昔過ぎてほとんど思い出せないし。というか感情移入できない。なんか他人事。
児童虐待や嬰児殺しのニュースを聞いても、全然、かわいそうにって気持ちは出てこないのだ。
怒りは感じるんだけど。「母親は、父親は、そして両親をサポートするはずの社会システムはいったいどうなっとるんだ、何してたんだ、今のシステムあかんやろ。親が追い詰められないで子育てできるような環境つくらなきゃならないし、運悪く危険な親にあたってしまった子どもは必ず一定数出るんだからそういう時なんとかできるようにしとかなきゃいかないでしょ。」と。
まあそう思うだけで、具体的には行動しないんですが。デモに行ったこともない、ニュースも見ない、ダメ社会人だと自分では思っております。
しかし、仕事してなかった頃はな。「仕事さえできたら、自分は合格できるんだ」と思ってたのにな。仕事に行けるようになったら「仕事に行けて当たり前。きちんと社会的活動もしなければ合格しません。」ってなっちゃうんだもんな。ハードルが上がるので、いつまでたっても合格しませんよ。自分内「生きてていいぞ試験」に。まあ受からなくっても生きてますけどね。
いいことあってテンション上がったので、内容関係ないけど日記を書いてみた。 2011/08/25(木) 23:45:15 未分類 トラックバック:0 コメント:0


